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《吾輩は猫である》 作者:夏目漱石

二 - 4

神田の某亭で晩餐(ばんさん)を食う。久し振りで正宗を二三杯飲んだら、今朝は胃の具合が大変いい。胃弱には晩酌が一番だと思う。タカジヤスターゼは無論いかん。誰が何と云っても駄目だ。どうしたって利(き)かないものは利かないのだ。

無暗(むやみ)にタカジヤスターゼを攻撃する。独りで喧嘩をしているようだ。今朝の肝癪がちょっとここへ尾を出す。人間の日記の本色はこう云う辺(へん)に存するのかも知れない。

せんだって○○は朝飯(あさめし)を廃すると胃がよくなると云うたから二三日(にさんち)朝飯をやめて見たが腹がぐうぐう鳴るばかりで功能はない。△△は是非香(こう)の物(もの)を断(た)てと忠告した。彼の説によるとすべて胃病の源因は漬物にある。漬物さえ断てば胃病の源を涸(か)らす訳だから本復は疑なしという論法であった。それから一週間ばかり香の物に箸(はし)を触れなかったが別段の験(げん)も見えなかったから近頃はまた食い出した。××に聞くとそれは按腹(あんぷく)揉療治(もみりょうじ)に限る。ただし普通のではゆかぬ。皆川流(みながわりゅう)という古流な揉(も)み方で一二度やらせれば大抵の胃病は根治出来る。安井息軒(やすいそっけん)も大変この按摩術(あんまじゅつ)を愛していた。坂本竜馬(さかもとりょうま)のような豪傑でも時々は治療をうけたと云うから、早速上根岸(かみねぎし)まで出掛けて揉(も)まして見た。ところが骨を揉(も)まなければ癒(なお)らぬとか、臓腑の位置を一度顛倒(てんとう)しなければ根治がしにくいとかいって、それはそれは残酷な揉(も)み方をやる。後で身体が綿のようになって昏睡病(こんすいびょう)にかかったような心持ちがしたので、一度で閉口してやめにした。A君は是非固形体を食うなという。それから、一日牛乳ばかり飲んで暮して見たが、この時は腸の中でどぼりどぼりと音がして大水でも出たように思われて終夜眠れなかった。B氏は横膈膜(おうかくまく)で呼吸して内臓を運動させれば自然と胃の働きが健全になる訳だから試しにやって御覧という。これも多少やったが何となく腹中(ふくちゅう)が不安で困る。それに時々思い出したように一心不乱にかかりはするものの五六分立つと忘れてしまう。忘れまいとすると横膈膜が気になって本を読む事も文章をかく事も出来ぬ。美学者の迷亭(めいてい)がこの体(てい)を見て、産気(さんけ)のついた男じゃあるまいし止(よ)すがいいと冷かしたからこの頃は廃(よ)してしまった。C先生は蕎麦(そば)を食ったらよかろうと云うから、早速かけともりをかわるがわる食ったが、これは腹が下(くだ)るばかりで何等の功能もなかった。余は年来の胃弱を直すために出来得る限りの方法を講じて見たがすべて駄目である。ただ昨夜(ゆうべ)寒月と傾けた三杯の正宗はたしかに利目(ききめ)がある。これからは毎晩二三杯ずつ飲む事にしよう。

これも決して長く続く事はあるまい。主人の心は吾輩の眼球(めだま)のように間断なく変化している。何をやっても永持(ながもち)のしない男である。その上日記の上で胃病をこんなに心配している癖に、表向は大(おおい)に痩我慢をするからおかしい。せんだってその友人で某(なにがし)という学者が尋ねて来て、一種の見地から、すべての病気は父祖の罪悪と自己の罪悪の結果にほかならないと云う議論をした。大分(だいぶ)研究したものと見えて、条理が明晰(めいせき)で秩序が整然として立派な説であった。気の毒ながらうちの主人などは到底これを反駁(はんばく)するほどの頭脳も学問もないのである。しかし自分が胃病で苦しんでいる際(さい)だから、何とかかんとか弁解をして自己の面目を保とうと思った者と見えて、「君の説は面白いが、あのカーライルは胃弱だったぜ」とあたかもカーライルが胃弱だから自分の胃弱も名誉であると云ったような、見当違いの挨拶をした。すると友人は「カーライルが胃弱だって、胃弱の病人が必ずカーライルにはなれないさ」と極(き)め付けたので主人は黙然(もくねん)としていた。かくのごとく虚栄心に富んでいるものの実際はやはり胃弱でない方がいいと見えて、今夜から晩酌を始めるなどというのはちょっと滑稽だ。考えて見ると今朝雑煮(ぞうに)をあんなにたくさん食ったのも昨夜(ゆうべ)寒月君と正宗をひっくり返した影響かも知れない。吾輩もちょっと雑煮が食って見たくなった。

吾輩は猫ではあるが大抵のものは食う。車屋の黒のように横丁の肴屋(さかなや)まで遠征をする気力はないし、新道(しんみち)の二絃琴(にげんきん)の師匠の所(とこ)の三毛(みけ)のように贅沢(ぜいたく)は無論云える身分でない。従って存外嫌(きらい)は少ない方だ。小供の食いこぼした麺麭(パン)も食うし、餅菓子の餡(あん)もなめる。香(こう)の物(もの)はすこぶるまずいが経験のため沢庵(たくあん)を二切ばかりやった事がある。食って見ると妙なもので、大抵のものは食える。あれは嫌(いや)だ、これは嫌だと云うのは贅沢(ぜいたく)な我儘で到底教師の家(うち)にいる猫などの口にすべきところでない。主人の話しによると仏蘭西(フランス)にバルザックという小説家があったそうだ。この男が大の贅沢(ぜいたく)屋で――もっともこれは口の贅沢屋ではない、小説家だけに文章の贅沢を尽したという事である。バルザックが或る日自分の書いている小説中の人間の名をつけようと思っていろいろつけて見たが、どうしても気に入らない。ところへ友人が遊びに来たのでいっしょに散歩に出掛けた。友人は固(もと)より何(なんに)も知らずに連れ出されたのであるが、バルザックは兼(か)ねて自分の苦心している名を目付(めつけ)ようという考えだから往来へ出ると何もしないで店先の看板ばかり見て歩行(ある)いている。ところがやはり気に入った名がない。友人を連れて無暗(むやみ)にあるく。友人は訳がわからずにくっ付いて行く。彼等はついに朝から晩まで巴理(パリ)を探険した。その帰りがけにバルザックはふとある裁縫屋の看板が目についた。見るとその看板にマーカスという名がかいてある。バルザックは手を拍(う)って「これだこれだこれに限る。マーカスは好い名じゃないか。マーカスの上へZという頭文字をつける、すると申し分(ぶん)のない名が出来る。Zでなくてはいかん。Z.Marcusは実にうまい。どうも自分で作った名はうまくつけたつもりでも何となく故意(わざ)とらしいところがあって面白くない。ようやくの事で気に入った名が出来た」と友人の迷惑はまるで忘れて、一人嬉しがったというが、小説中の人間の名前をつけるに一日(いちんち)巴理(パリ)を探険しなくてはならぬようでは随分手数(てすう)のかかる話だ。贅沢もこのくらい出来れば結構なものだが吾輩のように牡蠣的(かきてき)主人を持つ身の上ではとてもそんな気は出ない。何でもいい、食えさえすれば、という気になるのも境遇のしからしむるところであろう。だから今雑煮(ぞうに)が食いたくなったのも決して贅沢の結果ではない、何でも食える時に食っておこうという考から、主人の食い剰(あま)した雑煮がもしや台所に残っていはすまいかと思い出したからである。……台所へ廻って見る。

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