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《吾輩は猫である》 作者:夏目漱石

三 - 2

鼻毛で妻君を追払った主人は、まずこれで安心と云わぬばかりに鼻毛を抜いては原稿をかこうと焦(あせ)る体(てい)であるがなかなか筆は動かない。「焼芋を食うも蛇足(だそく)だ、割愛(かつあい)しよう」とついにこの句も抹殺(まっさつ)する。「香一もあまり唐突(とうとつ)だから已(や)めろ」と惜気もなく筆誅(ひっちゅう)する。余す所は「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」と云う一句になってしまった。主人はこれでは何だか簡単過ぎるようだなと考えていたが、ええ面倒臭い、文章は御廃(おはい)しにして、銘だけにしろと、筆を十文字に揮(ふる)って原稿紙の上へ下手な文人画の蘭を勢よくかく。せっかくの苦心も一字残らず落第となった。それから裏を返して「空間に生れ、空間を究(きわ)め、空間に死す。空たり間たり天然居士(てんねんこじ)噫(ああ)」と意味不明な語を連(つら)ねているところへ例のごとく迷亭が這入(はい)って来る。迷亭は人の家(うち)も自分の家も同じものと心得ているのか案内も乞わず、ずかずか上ってくる、のみならず時には勝手口から飄然(ひょうぜん)と舞い込む事もある、心配、遠慮、気兼(きがね)、苦労、を生れる時どこかへ振り落した男である。

「また巨人引力かね」と立ったまま主人に聞く。「そう、いつでも巨人引力ばかり書いてはおらんさ。天然居士の墓銘を撰(せん)しているところなんだ」と大袈裟(おおげさ)な事を云う。「天然居士と云うなあやはり偶然童子のような戒名かね」と迷亭は不相変(あいかわらず)出鱈目(でたらめ)を云う。「偶然童子と云うのもあるのかい」「なに有りゃしないがまずその見当(けんとう)だろうと思っていらあね」「偶然童子と云うのは僕の知ったものじゃないようだが天然居士と云うのは、君の知ってる男だぜ」「一体だれが天然居士なんて名を付けてすましているんだい」「例の曾呂崎(そろさき)の事だ。卒業して大学院へ這入って空間論と云う題目で研究していたが、あまり勉強し過ぎて腹膜炎で死んでしまった。曾呂崎はあれでも僕の親友なんだからな」「親友でもいいさ、決して悪いと云やしない。しかしその曾呂崎を天然居士に変化させたのは一体誰の所作(しょさ)だい」「僕さ、僕がつけてやったんだ。元来坊主のつける戒名ほど俗なものは無いからな」と天然居士はよほど雅(が)な名のように自慢する。迷亭は笑いながら「まあその墓碑銘(ぼひめい)と云う奴を見せ給え」と原稿を取り上げて「何だ……空間に生れ、空間を究(きわ)め、空間に死す。空たり間たり天然居士噫(ああ)」と大きな声で読み上(あげ)る。「なるほどこりゃあ善(い)い、天然居士相当のところだ」主人は嬉しそうに「善いだろう」と云う。「この墓銘(ぼめい)を沢庵石(たくあんいし)へ彫(ほ)り付けて本堂の裏手へ力石(ちからいし)のように抛(ほう)り出して置くんだね。雅(が)でいいや、天然居士も浮かばれる訳だ」「僕もそうしようと思っているのさ」と主人は至極(しごく)真面目に答えたが「僕あちょっと失敬するよ、じき帰るから猫にでもからかっていてくれ給え」と迷亭の返事も待たず風然(ふうぜん)と出て行く。

計らずも迷亭先生の接待掛りを命ぜられて無愛想(ぶあいそ)な顔もしていられないから、ニャーニャーと愛嬌(あいきょう)を振り蒔(ま)いて膝(ひざ)の上へ這(は)い上(あが)って見た。すると迷亭は「イヨー大分(だいぶ)肥(ふと)ったな、どれ」と無作法(ぶさほう)にも吾輩の襟髪(えりがみ)を攫(つか)んで宙へ釣るす。「あと足をこうぶら下げては、鼠(ねずみ)は取れそうもない、……どうです奥さんこの猫は鼠を捕りますかね」と吾輩ばかりでは不足だと見えて、隣りの室(へや)の妻君に話しかける。「鼠どころじゃございません。御雑煮(おぞうに)を食べて踊りをおどるんですもの」と妻君は飛んだところで旧悪を暴(あば)く。吾輩は宙乗(ちゅうの)りをしながらも少々極りが悪かった。迷亭はまだ吾輩を卸(おろ)してくれない。「なるほど踊りでもおどりそうな顔だ。奥さんこの猫は油断のならない相好(そうごう)ですぜ。昔(むか)しの草双紙(くさぞうし)にある猫又(ねこまた)に似ていますよ」と勝手な事を言いながら、しきりに細君(さいくん)に話しかける。細君は迷惑そうに針仕事の手をやめて座敷へ出てくる。

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