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《吾輩は猫である》 作者:夏目漱石

三 - 11

折柄(おりから)廊下を近(ちかづ)く足音がして障子を開ける音がする。誰か来たなと一生懸命に聞いていると「御嬢様、旦那様と奥様が呼んでいらっしゃいます」と小間使らしい声がする。「知らないよ」と令嬢は剣突(けんつく)を食わせる。「ちょっと用があるから嬢(じょう)を呼んで来いとおっしゃいました」「うるさいね、知らないてば」と令嬢は第二の剣突を食わせる。「……水島寒月さんの事で御用があるんだそうでございます」と小間使は気を利(き)かして機嫌を直そうとする。「寒月でも、水月でも知らないんだよ――大嫌いだわ、糸瓜(へちま)が戸迷(とまど)いをしたような顔をして」第三の剣突は、憐れなる寒月君が、留守中に頂戴する。「おや御前いつ束髪(そくはつ)に結(い)ったの」小間使はほっと一息ついて「今日(こんにち)」となるべく単簡(たんかん)な挨拶をする。「生意気だねえ、小間使の癖に」と第四の剣突を別方面から食わす。「そうして新しい半襟(はんえり)を掛けたじゃないか」「へえ、せんだって御嬢様からいただきましたので、結構過ぎて勿体(もったい)ないと思って行李(こうり)の中へしまっておきましたが、今までのがあまり汚(よご)れましたからかけ易(か)えました」「いつ、そんなものを上げた事があるの」「この御正月、白木屋へいらっしゃいまして、御求め遊ばしたので――鶯茶(うぐいすちゃ)へ相撲(すもう)の番附(ばんづけ)を染め出したのでございます。妾(あた)しには地味過ぎていやだから御前に上げようとおっしゃった、あれでございます」「あらいやだ。善く似合うのね。にくらしいわ」「恐れ入ります」「褒(ほ)めたんじゃない。にくらしいんだよ」「へえ」「そんなによく似合うものをなぜだまって貰ったんだい」「へえ」「御前にさえ、そのくらい似合うなら、妾(あた)しにだっておかしい事あないだろうじゃないか」「きっとよく御似合い遊ばします」「似あうのが分ってる癖になぜ黙っているんだい。そうしてすまして掛けているんだよ、人の悪い」剣突(けんつく)は留めどもなく連発される。このさき、事局はどう発展するかと謹聴している時、向うの座敷で「富子や、富子や」と大きな声で金田君が令嬢を呼ぶ。令嬢はやむを得ず「はい」と電話室を出て行く。吾輩より少し大きな狆(ちん)が顔の中心に眼と口を引き集めたような面(かお)をして付いて行く。吾輩は例の忍び足で再び勝手から往来へ出て、急いで主人の家に帰る。探険はまず十二分の成績(せいせき)である。

帰って見ると、奇麗な家(うち)から急に汚ない所へ移ったので、何だか日当りの善い山の上から薄黒い洞窟(どうくつ)の中へ入(はい)り込んだような心持ちがする。探険中は、ほかの事に気を奪われて部屋の装飾、襖(ふすま)、障子(しょうじ)の具合などには眼も留らなかったが、わが住居(すまい)の下等なるを感ずると同時に彼(か)のいわゆる月並(つきなみ)が恋しくなる。教師よりもやはり実業家がえらいように思われる。吾輩も少し変だと思って、例の尻尾(しっぽ)に伺いを立てて見たら、その通りその通りと尻尾の先から御託宣(ごたくせん)があった。座敷へ這入(はい)って見ると驚いたのは迷亭先生まだ帰らない、巻煙草(まきたばこ)の吸い殻を蜂の巣のごとく火鉢の中へ突き立てて、大胡坐(おおあぐら)で何か話し立てている。いつの間(ま)にか寒月君さえ来ている。主人は手枕をして天井の雨洩(あまもり)を余念もなく眺めている。あいかわらず太平の逸民の会合である。

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