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《吾輩は猫である》 作者:夏目漱石

四 - 2

近頃は勝手口の横を庭へ通り抜けて、築山(つきやま)の陰から向うを見渡して障子が立て切って物静かであるなと見極めがつくと、徐々(そろそろ)上り込む。もし人声が賑(にぎや)かであるか、座敷から見透(みす)かさるる恐れがあると思えば池を東へ廻って雪隠(せついん)の横から知らぬ間(ま)に椽(えん)の下へ出る。悪い事をした覚(おぼえ)はないから何も隠れる事も、恐れる事もないのだが、そこが人間と云う無法者に逢っては不運と諦(あきら)めるより仕方がないので、もし世間が熊坂長範(くまさかちょうはん)ばかりになったらいかなる盛徳の君子もやはり吾輩のような態度に出ずるであろう。金田君は堂々たる実業家であるから固(もと)より熊坂長範のように五尺三寸を振り廻す気遣(きづかい)はあるまいが、承(うけたまわ)る処によれば人を人と思わぬ病気があるそうである。人を人と思わないくらいなら猫を猫とも思うまい。して見れば猫たるものはいかなる盛徳の猫でも彼の邸内で決して油断は出来ぬ訳(わけ)である。しかしその油断の出来ぬところが吾輩にはちょっと面白いので、吾輩がかくまでに金田家の門を出入(しゅつにゅう)するのも、ただこの危険が冒(おか)して見たいばかりかも知れぬ。それは追って篤(とく)と考えた上、猫の脳裏(のうり)を残りなく解剖し得た時改めて御吹聴(ごふいちょう)仕(つかまつ)ろう。

今日はどんな模様だなと、例の築山の芝生(しばふ)の上に顎(あご)を押しつけて前面を見渡すと十五畳の客間を弥生(やよい)の春に明け放って、中には金田夫婦と一人の来客との御話(おはなし)最中(さいちゅう)である。生憎(あいにく)鼻子夫人の鼻がこっちを向いて池越しに吾輩の額の上を正面から睨(にら)め付けている。鼻に睨まれたのは生れて今日が始めてである。金田君は幸い横顔を向けて客と相対しているから例の平坦な部分は半分かくれて見えぬが、その代り鼻の在所(ありか)が判然しない。ただ胡麻塩(ごましお)色の口髯(くちひげ)が好い加減な所から乱雑に茂生(もせい)しているので、あの上に孔(あな)が二つあるはずだと結論だけは苦もなく出来る。春風(はるかぜ)もああ云う滑(なめら)かな顔ばかり吹いていたら定めて楽(らく)だろうと、ついでながら想像を逞(たくま)しゅうして見た。御客さんは三人の中(うち)で一番普通な容貌(ようぼう)を有している。ただし普通なだけに、これぞと取り立てて紹介するに足るような雑作(ぞうさく)は一つもない。普通と云うと結構なようだが、普通の極(きょく)平凡の堂に上(のぼ)り、庸俗の室に入(い)ったのはむしろ憫然(びんぜん)の至りだ。かかる無意味な面構(つらがまえ)を有すべき宿命を帯びて明治の昭代(しょうだい)に生れて来たのは誰だろう。例のごとく椽の下まで行ってその談話を承わらなくては分らぬ。

「……それで妻(さい)がわざわざあの男の所まで出掛けて行って容子(ようす)を聞いたんだがね……」と金田君は例のごとく横風(おうふう)な言葉使である。横風ではあるが毫(ごう)も峻嶮(しゅんけん)なところがない。言語も彼の顔面のごとく平板尨大(へいばんぼうだい)である。

「なるほどあの男が水島さんを教えた事がございますので――なるほど、よい御思い付きで――なるほど」となるほどずくめのは御客さんである。

「ところが何だか要領を得んので」

「ええ苦沙弥(くしゃみ)じゃ要領を得ない訳(わけ)で――あの男は私がいっしょに下宿をしている時分から実に煮(に)え切らない――そりゃ御困りでございましたろう」と御客さんは鼻子夫人の方を向く。

「困るの、困らないのってあなた、私(わた)しゃこの年になるまで人のうちへ行って、あんな不取扱(ふとりあつかい)を受けた事はありゃしません」と鼻子は例によって鼻嵐を吹く。

「何か無礼な事でも申しましたか、昔(むか)しから頑固(がんこ)な性分で――何しろ十年一日のごとくリードル専門の教師をしているのでも大体御分りになりましょう」と御客さんは体(てい)よく調子を合せている。

「いや御話しにもならんくらいで、妻(さい)が何か聞くとまるで剣もほろろの挨拶だそうで……」

「それは怪(け)しからん訳で――一体少し学問をしているととかく慢心が萌(きざ)すもので、その上貧乏をすると負け惜しみが出ますから――いえ世の中には随分無法な奴がおりますよ。自分の働きのないのにゃ気が付かないで、無暗(むやみ)に財産のあるものに喰って掛るなんてえのが――まるで彼等の財産でも捲(ま)き上げたような気分ですから驚きますよ、あははは」と御客さんは大恐悦の体(てい)である。

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