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《吾輩は猫である》 作者:夏目漱石

四 - 11

「よく人の云う事を疑ぐる男だ。――もっとも問題は団栗(どんぐり)だか首縊(くびくく)りの力学だか確(しか)と分らんがね。とにかく寒月の事だから鼻の恐縮するようなものに違いない」

さっきから迷亭が鼻々と無遠慮に云うのを聞くたんびに鈴木君は不安の様子をする。迷亭は少しも気が付かないから平気なものである。

「その後鼻についてまた研究をしたが、この頃トリストラム·シャンデーの中に鼻論(はなろん)があるのを発見した。金田の鼻などもスターンに見せたら善い材料になったろうに残念な事だ。鼻名(びめい)を千載(せんざい)に垂れる資格は充分ありながら、あのままで朽(く)ち果つるとは不憫千万(ふびんせんばん)だ。今度ここへ来たら美学上の参考のために写生してやろう」と相変らず口から出任(でまか)せに喋舌(しゃべ)り立てる。

「しかしあの娘は寒月の所へ来たいのだそうだ」と主人が今鈴木君から聞いた通りを述べると、鈴木君はこれは迷惑だと云う顔付をしてしきりに主人に目くばせをするが、主人は不導体のごとく一向(いっこう)電気に感染しない。

「ちょっと乙(おつ)だな、あんな者の子でも恋をするところが、しかし大した恋じゃなかろう、大方鼻恋(はなごい)くらいなところだぜ」

「鼻恋でも寒月が貰えばいいが」

「貰えばいいがって、君は先日大反対だったじゃないか。今日はいやに軟化しているぜ」

「軟化はせん、僕は決して軟化はせんしかし……」

「しかしどうかしたんだろう。ねえ鈴木、君も実業家の末席(ばっせき)を汚(けが)す一人だから参考のために言って聞かせるがね。あの金田某なる者さ。あの某なるものの息女などを天下の秀才水島寒月の令夫人と崇(あが)め奉るのは、少々提灯(ちょうちん)と釣鐘と云う次第で、我々朋友(ほうゆう)たる者が冷々(れいれい)黙過する訳に行かん事だと思うんだが、たとい実業家の君でもこれには異存はあるまい」

「相変らず元気がいいね。結構だ。君は十年前と容子(ようす)が少しも変っていないからえらい」と鈴木君は柳に受けて、胡麻化(ごまか)そうとする。

「えらいと褒(ほ)めるなら、もう少し博学なところを御目にかけるがね。昔(むか)しの希臘人(ギリシャじん)は非常に体育を重んじたものであらゆる競技に貴重なる懸賞を出して百方奨励の策を講じたものだ。しかるに不思議な事には学者の智識に対してのみは何等の褒美(ほうび)も与えたと云う記録がなかったので、今日(こんにち)まで実は大(おおい)に怪しんでいたところさ」

「なるほど少し妙だね」と鈴木君はどこまでも調子を合せる。

「しかるについ両三日前に至って、美学研究の際ふとその理由を発見したので多年の疑団(ぎだん)は一度に氷解。漆桶(しっつう)を抜くがごとく痛快なる悟りを得て歓天喜地(かんてんきち)の至境に達したのさ」

あまり迷亭の言葉が仰山(ぎょうさん)なので、さすが御上手者(おじょうずもの)の鈴木君も、こりゃ手に合わないと云う顔付をする。主人はまた始まったなと云わぬばかりに、象牙(ぞうげ)の箸(はし)で菓子皿の縁(ふち)をかんかん叩いて俯(う)つ向(む)いている。迷亭だけは大得意で弁じつづける。

「そこでこの矛盾なる現象の説明を明記して、暗黒の淵(ふち)から吾人の疑を千載(せんざい)の下(もと)に救い出してくれた者は誰だと思う。学問あって以来の学者と称せらるる彼(か)の希臘(ギリシャ)の哲人、逍遥派(しょうようは)の元祖アリストートルその人である。彼の説明に曰(いわ)くさ――おい菓子皿などを叩かんで謹聴していなくちゃいかん。――彼等希臘人が競技において得るところの賞与は彼等が演ずる技芸その物より貴重なものである。それ故に褒美(ほうび)にもなり、奨励の具ともなる。しかし智識その物に至ってはどうである。もし智識に対する報酬として何物をか与えんとするならば智識以上の価値あるものを与えざるべからず。しかし智識以上の珍宝が世の中にあろうか。無論あるはずがない。下手なものをやれば智識の威厳を損する訳になるばかりだ。彼等は智識に対して千両箱をオリムパスの山ほど積み、クリーサスの富を傾(かたむ)け尽(つく)しても相当の報酬を与えんとしたのであるが、いかに考えても到底(とうてい)釣り合うはずがないと云う事を観破(かんぱ)して、それより以来と云うものは奇麗さっぱり何にもやらない事にしてしまった。黄白青銭(こうはくせいせん)が智識の匹敵(ひってき)でない事はこれで十分理解出来るだろう。さてこの原理を服膺(ふくよう)した上で時事問題に臨(のぞ)んで見るがいい。金田某は何だい紙幣(さつ)に眼鼻をつけただけの人間じゃないか、奇警なる語をもって形容するならば彼は一個の活動紙幣(かつどうしへい)に過ぎんのである。活動紙幣の娘なら活動切手くらいなところだろう。翻(ひるがえ)って寒月君は如何(いかん)と見ればどうだ。辱(かたじ)けなくも学問最高の府を第一位に卒業して毫(ごう)も倦怠(けんたい)の念なく長州征伐時代の羽織の紐をぶら下げて、日夜団栗(どんぐり)のスタビリチーを研究し、それでもなお満足する様子もなく、近々(きんきん)の中ロード·ケルヴィンを圧倒するほどな大論文を発表しようとしつつあるではないか。たまたま吾妻橋(あずまばし)を通り掛って身投げの芸を仕損じた事はあるが、これも熱誠なる青年に有りがちの発作的(ほっさてき)所為(しょい)で毫(ごう)も彼が智識の問屋(とんや)たるに煩(わずら)いを及ぼすほどの出来事ではない。迷亭一流の喩(たとえ)をもって寒月君を評すれば彼は活動図書館である。智識をもって捏(こ)ね上げたる二十八珊(サンチ)の弾丸である。この弾丸が一たび時機を得て学界に爆発するなら、――もし爆発して見給え――爆発するだろう――」迷亭はここに至って迷亭一流と自称する形容詞が思うように出て来ないので俗に云う竜頭蛇尾(りゅうとうだび)の感に多少ひるんで見えたがたちまち「活動切手などは何千万枚あったって粉(こ)な微塵(みじん)になってしまうさ。それだから寒月には、あんな釣り合わない女性(にょしょう)は駄目だ。僕が不承知だ、百獣の中(うち)でもっとも聡明なる大象と、もっとも貪婪(たんらん)なる小豚と結婚するようなものだ。そうだろう苦沙弥君」と云って退(の)けると、主人はまた黙って菓子皿を叩き出す。鈴木君は少し凹(へこ)んだ気味で

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