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《吾輩は猫である》 作者:夏目漱石

七 - 2

海水浴は追って実行する事にして、運動だけは取りあえずやる事に取り極(き)めた。どうも二十世紀の今日(こんにち)運動せんのはいかにも貧民のようで人聞きがわるい。運動をせんと、運動せんのではない。運動が出来んのである、運動をする時間がないのである、余裕がないのだと鑑定される。昔は運動したものが折助(おりすけ)と笑われたごとく、今では運動をせぬ者が下等と見做(みな)されている。吾人の評価は時と場合に応じ吾輩の眼玉のごとく変化する。吾輩の眼玉はただ小さくなったり大きくなったりするばかりだが、人間の品隲(ひんしつ)とくると真逆(まっさ)かさまにひっくり返る。ひっくり返っても差(さ)し支(つか)えはない。物には両面がある、両端(りょうたん)がある。両端を叩(たた)いて黒白(こくびゃく)の変化を同一物の上に起こすところが人間の融通のきくところである。方寸を逆(さ)かさまにして見ると寸方となるところに愛嬌(あいきょう)がある。天(あま)の橋立(はしだて)を股倉(またぐら)から覗(のぞ)いて見るとまた格別な趣(おもむき)が出る。セクスピヤも千古万古セクスピヤではつまらない。偶(たま)には股倉からハムレットを見て、君こりゃ駄目だよくらいに云う者がないと、文界も進歩しないだろう。だから運動をわるく云った連中が急に運動がしたくなって、女までがラケットを持って往来をあるき廻ったって一向(いっこう)不思議はない。ただ猫が運動するのを利(き)いた風だなどと笑いさえしなければよい。さて吾輩の運動はいかなる種類の運動かと不審を抱(いだ)く者があるかも知れんから一応説明しようと思う。御承知のごとく不幸にして機械を持つ事が出来ん。だからボールもバットも取り扱い方に困窮する。次には金がないから買う訳(わけ)に行かない。この二つの源因からして吾輩の選んだ運動は一文(いちもん)いらず器械なしと名づくべき種類に属する者と思う。そんなら、のそのそ歩くか、あるいは鮪(まぐろ)の切身を啣(くわ)えて馳(か)け出す事と考えるかも知れんが、ただ四本の足を力学的に運動させて、地球の引力に順(したが)って、大地を横行するのは、あまり単簡(たんかん)で興味がない。いくら運動と名がついても、主人の時々実行するような、読んで字のごとき運動はどうも運動の神聖を汚(け)がす者だろうと思う。勿論(もちろん)ただの運動でもある刺激の下(もと)にはやらんとは限らん。鰹節競争(かつぶしきょうそう)、鮭探(しゃけさが)しなどは結構だがこれは肝心(かんじん)の対象物があっての上の事で、この刺激を取り去ると索然(さくぜん)として没趣味なものになってしまう。懸賞的興奮剤がないとすれば何か芸のある運動がして見たい。吾輩はいろいろ考えた。台所の廂(ひさし)から家根(やね)に飛び上がる方、家根の天辺(てっぺん)にある梅花形(ばいかがた)の瓦(かわら)の上に四本足で立つ術、物干竿(ものほしざお)を渡る事――これはとうてい成功しない、竹がつるつる滑(す)べって爪が立たない。後(うし)ろから不意に小供に飛びつく事、――これはすこぶる興味のある運動の一(ひとつ)だが滅多(めった)にやるとひどい目に逢うから、高々(たかだか)月に三度くらいしか試みない。紙袋(かんぶくろ)を頭へかぶせらるる事――これは苦しいばかりではなはだ興味の乏(とぼ)しい方法である。ことに人間の相手がおらんと成功しないから駄目。次には書物の表紙を爪で引き掻(か)く事、――これは主人に見付かると必ずどやされる危険があるのみならず、割合に手先の器用ばかりで総身の筋肉が働かない。これらは吾輩のいわゆる旧式運動なる者である。新式のうちにはなかなか興味の深いのがある。第一に蟷螂狩(とうろうが)り。――蟷螂狩りは鼠狩(ねずみが)りほどの大運動でない代りにそれほどの危険がない。夏の半(なかば)から秋の始めへかけてやる遊戯としてはもっとも上乗のものだ。その方法を云うとまず庭へ出て、一匹の蟷螂(かまきり)をさがし出す。時候がいいと一匹や二匹見付け出すのは雑作(ぞうさ)もない。さて見付け出した蟷螂君の傍(そば)へはっと風を切って馳(か)けて行く。するとすわこそと云う身構(みがまえ)をして鎌首をふり上げる。蟷螂でもなかなか健気(けなげ)なもので、相手の力量を知らんうちは抵抗するつもりでいるから面白い。振り上げた鎌首を右の前足でちょっと参る。振り上げた首は軟かいからぐにゃり横へ曲る。この時の蟷螂君の表情がすこぶる興味を添える。おやと云う思い入れが充分ある。ところを一足(いっそく)飛びに君(きみ)の後(うし)ろへ廻って今度は背面から君の羽根を軽(かろ)く引き掻(か)く。あの羽根は平生大事に畳(たた)んであるが、引き掻き方が烈(はげ)しいと、ぱっと乱れて中から吉野紙のような薄色の下着があらわれる。君は夏でも御苦労千万に二枚重ねで乙(おつ)に極(き)まっている。この時君の長い首は必ず後ろに向き直る。ある時は向ってくるが、大概の場合には首だけぬっと立てて立っている。こっちから手出しをするのを待ち構えて見える。先方がいつまでもこの態度でいては運動にならんから、あまり長くなるとまたちょいと一本参る。これだけ参ると眼識のある蟷螂なら必ず逃げ出す。それを我無洒落(がむしゃら)に向ってくるのはよほど無教育な野蛮的蟷螂である。もし相手がこの野蛮な振舞をやると、向って来たところを覘(ねら)いすまして、いやと云うほど張り付けてやる。大概は二三尺飛ばされる者である。しかし敵がおとなしく背面に前進すると、こっちは気の毒だから庭の立木を二三度飛鳥のごとく廻ってくる。蟷螂君(かまきりくん)はまだ五六寸しか逃げ延びておらん。もう吾輩の力量を知ったから手向いをする勇気はない。ただ右往左往へ逃げ惑(まど)うのみである。しかし吾輩も右往左往へ追っかけるから、君はしまいには苦しがって羽根を振(ふる)って一大活躍を試みる事がある。元来蟷螂の羽根は彼の首と調和して、すこぶる細長く出来上がったものだが、聞いて見ると全く装飾用だそうで、人間の英語、仏語、独逸語(ドイツご)のごとく毫(ごう)も実用にはならん。だから無用の長物を利用して一大活躍を試みたところが吾輩に対してあまり功能のありよう訳がない。名前は活躍だが事実は地面の上を引きずってあるくと云うに過ぎん。こうなると少々気の毒な感はあるが運動のためだから仕方がない。御免蒙(ごめんこうむ)ってたちまち前面へ馳(か)け抜ける。君は惰性で急廻転が出来ないからやはりやむを得ず前進してくる。その鼻をなぐりつける。この時蟷螂君は必ず羽根を広げたまま仆(たお)れる。その上をうんと前足で抑(おさ)えて少しく休息する。それからまた放す。放しておいてまた抑える。七擒七縦(しちきんしちしょう)孔明(こうめい)の軍略で攻めつける。約三十分この順序を繰り返して、身動きも出来なくなったところを見すましてちょっと口へ啣(くわ)えて振って見る。それからまた吐き出す。今度は地面の上へ寝たぎり動かないから、こっちの手で突っ付いて、その勢で飛び上がるところをまた抑えつける。これもいやになってから、最後の手段としてむしゃむしゃ食ってしまう。ついでだから蟷螂を食った事のない人に話しておくが、蟷螂はあまり旨(うま)い物ではない。そうして滋養分も存外少ないようである。蟷螂狩(とうろうが)りに次いで蝉取(せみと)りと云う運動をやる。単に蝉と云ったところが同じ物ばかりではない。人間にも油野郎(あぶらやろう)、みんみん野郎、おしいつくつく野郎があるごとく、蝉にも油蝉、みんみん、おしいつくつくがある。油蝉はしつこくて行(い)かん。みんみんは横風(おうふう)で困る。ただ取って面白いのはおしいつくつくである。これは夏の末にならないと出て来ない。八(や)つ口(くち)の綻(ほころ)びから秋風(あきかぜ)が断わりなしに膚(はだ)を撫(な)でてはっくしょ風邪(かぜ)を引いたと云う頃熾(さかん)に尾を掉(ふ)り立ててなく。善(よ)く鳴く奴で、吾輩から見ると鳴くのと猫にとられるよりほかに天職がないと思われるくらいだ。秋の初はこいつを取る。これを称して蝉取り運動と云う。ちょっと諸君に話しておくがいやしくも蝉と名のつく以上は、地面の上に転(ころ)がってはおらん。地面の上に落ちているものには必ず蟻(あり)がついている。吾輩の取るのはこの蟻の領分に寝転んでいる奴ではない。高い木の枝にとまって、おしいつくつくと鳴いている連中を捕(とら)えるのである。これもついでだから博学なる人間に聞きたいがあれはおしいつくつくと鳴くのか、つくつくおしいと鳴くのか、その解釈次第によっては蝉の研究上少なからざる関係があると思う。人間の猫に優(まさ)るところはこんなところに存するので、人間の自(みずか)ら誇る点もまたかような点にあるのだから、今即答が出来ないならよく考えておいたらよかろう。もっとも蝉取り運動上はどっちにしても差(さ)し支(つか)えはない。ただ声をしるべに木を上(のぼ)って行って、先方が夢中になって鳴いているところをうんと捕えるばかりだ。これはもっとも簡略な運動に見えてなかなか骨の折れる運動である。吾輩は四本の足を有しているから大地を行く事においてはあえて他の動物には劣るとは思わない。少なくとも二本と四本の数学的智識から判断して見て人間には負けないつもりである。しかし木登りに至っては大分(だいぶ)吾輩より巧者な奴がいる。本職の猿は別物として、猿の末孫(ばっそん)たる人間にもなかなか侮(あなど)るべからざる手合(てあい)がいる。元来が引力に逆らっての無理な事業だから出来なくても別段の恥辱(ちじょく)とは思わんけれども、蝉取り運動上には少なからざる不便を与える。幸に爪と云う利器があるので、どうかこうか登りはするものの、はたで見るほど楽ではござらん。のみならず蝉は飛ぶものである。蟷螂君(かまきりくん)と違って一たび飛んでしまったが最後、せっかくの木登りも、木登らずと何の択(えら)むところなしと云う悲運に際会する事がないとも限らん。最後に時々蝉から小便をかけられる危険がある。あの小便がややともすると眼を覘(ねら)ってしょぐってくるようだ。逃げるのは仕方がないから、どうか小便ばかりは垂れんように致したい。飛ぶ間際(まぎわ)に溺(いば)りを仕(つかまつ)るのは一体どう云う心理的状態の生理的器械に及ぼす影響だろう。やはりせつなさのあまりかしらん。あるいは敵の不意に出でて、ちょっと逃げ出す余裕を作るための方便か知らん。そうすると烏賊(いか)の墨を吐き、ベランメーの刺物(ほりもの)を見せ、主人が羅甸語(ラテンご)を弄する類(たぐい)と同じ綱目(こうもく)に入るべき事項となる。これも蝉学上忽(ゆる)かせにすべからざる問題である。充分研究すればこれだけでたしかに博士論文の価値はある。それは余事だから、そのくらいにしてまた本題に帰る。蝉のもっとも集注するのは――集注がおかしければ集合だが、集合は陳腐(ちんぷ)だからやはり集注にする。――蝉のもっとも集注するのは青桐(あおぎり)である。漢名を梧桐(ごとう)と号するそうだ。ところがこの青桐は葉が非常に多い、しかもその葉は皆団扇(うちわ)くらいな大(おおき)さであるから、彼等が生(お)い重なると枝がまるで見えないくらい茂っている。これがはなはだ蝉取り運動の妨害になる。声はすれども姿は見えずと云う俗謡(ぞくよう)はとくに吾輩のために作った者ではなかろうかと怪しまれるくらいである。吾輩は仕方がないからただ声を知るべに行く。下から一間ばかりのところで梧桐は注文通り二叉(ふたまた)になっているから、ここで一休息(ひとやすみ)して葉裏から蝉の所在地を探偵する。もっともここまで来るうちに、がさがさと音を立てて、飛び出す気早な連中がいる。一羽飛ぶともういけない。真似をする点において蝉は人間に劣らぬくらい馬鹿である。あとから続々飛び出す。漸々(ようよう)二叉(ふたまた)に到着する時分には満樹寂(せき)として片声(へんせい)をとどめざる事がある。かつてここまで登って来て、どこをどう見廻わしても、耳をどう振っても蝉気(せみけ)がないので、出直すのも面倒だからしばらく休息しようと、叉(また)の上に陣取って第二の機会を待ち合せていたら、いつの間(ま)にか眠くなって、つい黒甜郷裡(こくてんきょうり)に遊んだ。おやと思って眼が醒(さ)めたら、二叉の黒甜郷裡(こくてんきょうり)から庭の敷石の上へどたりと落ちていた。しかし大概は登る度に一つは取って来る。ただ興味の薄い事には樹の上で口に啣(くわ)えてしまわなくてはならん。だから下へ持って来て吐き出す時は大方(おおかた)死んでいる。いくらじゃらしても引っ掻(か)いても確然たる手答がない。蝉取りの妙味はじっと忍んで行っておしい君(くん)が一生懸命に尻尾(しっぽ)を延ばしたり縮(ちぢ)ましたりしているところを、わっと前足で抑(おさ)える時にある。この時つくつく君(くん)は悲鳴を揚げて、薄い透明な羽根を縦横無尽に振う。その早い事、美事なる事は言語道断、実に蝉世界の一偉観である。余はつくつく君を抑える度(たび)にいつでも、つくつく君に請求してこの美術的演芸を見せてもらう。それがいやになるとご免を蒙(こうむ)って口の内へ頬張(ほおば)ってしまう。蝉によると口の内へ這入(はい)ってまで演芸をつづけているのがある。蝉取りの次にやる運動は松滑(まつすべ)りである。これは長くかく必要もないから、ちょっと述べておく。松滑りと云うと松を滑るように思うかも知れんが、そうではないやはり木登りの一種である。ただ蝉取りは蝉を取るために登り、松滑りは、登る事を目的として登る。これが両者の差である。元来松は常磐(ときわ)にて最明寺(さいみょうじ)の御馳走(ごちそう)をしてから以来今日(こんにち)に至るまで、いやにごつごつしている。従って松の幹ほど滑らないものはない。手懸りのいいものはない。足懸りのいいものはない。――換言すれば爪懸(つまがか)りのいいものはない。その爪懸りのいい幹へ一気呵成(いっきかせい)に馳(か)け上(あが)る。馳け上っておいて馳け下がる。馳け下がるには二法ある。一はさかさになって頭を地面へ向けて下りてくる。一は上(のぼ)ったままの姿勢をくずさずに尾を下にして降りる。人間に問うがどっちがむずかしいか知ってるか。人間のあさはかな了見(りょうけん)では、どうせ降りるのだから下向(したむき)に馳け下りる方が楽だと思うだろう。それが間違ってる。君等は義経が鵯越(ひよどりごえ)を落(お)としたことだけを心得て、義経でさえ下を向いて下りるのだから猫なんぞは無論下(し)た向きでたくさんだと思うのだろう。そう軽蔑(けいべつ)するものではない。猫の爪はどっちへ向いて生(は)えていると思う。みんな後(うし)ろへ折れている。それだから鳶口(とびぐち)のように物をかけて引き寄せる事は出来るが、逆に押し出す力はない。今吾輩が松の木を勢よく馳け登ったとする。すると吾輩は元来地上の者であるから、自然の傾向から云えば吾輩が長く松樹の巓(いただき)に留(とど)まるを許さんに相違ない、ただおけば必ず落ちる。しかし手放しで落ちては、あまり早過ぎる。だから何等かの手段をもってこの自然の傾向を幾分かゆるめなければならん。これ即(すなわ)ち降りるのである。落ちるのと降りるのは大変な違のようだが、その実思ったほどの事ではない。落ちるのを遅くすると降りるので、降りるのを早くすると落ちる事になる。落ちると降りるのは、ちとりの差である。吾輩は松の木の上から落ちるのはいやだから、落ちるのを緩(ゆる)めて降りなければならない。即(すなわ)ちあるものをもって落ちる速度に抵抗しなければならん。吾輩の爪は前(ぜん)申す通り皆後(うし)ろ向きであるから、もし頭を上にして爪を立てればこの爪の力は悉(ことごと)く、落ちる勢に逆(さから)って利用出来る訳である。従って落ちるが変じて降りるになる。実に見易(みやす)き道理である。しかるにまた身を逆(さか)にして義経流に松の木越(ごえ)をやって見給え。爪はあっても役には立たん。ずるずる滑って、どこにも自分の体量を持ち答える事は出来なくなる。ここにおいてかせっかく降りようと企(くわだ)てた者が変化して落ちる事になる。この通り鵯越(ひよどりごえ)はむずかしい。猫のうちでこの芸が出来る者は恐らく吾輩のみであろう。それだから吾輩はこの運動を称して松滑りと云うのである。最後に垣巡(かきめぐ)りについて一言(いちげん)する。主人の庭は竹垣をもって四角にしきられている。椽側(えんがわ)と平行している一片(いっぺん)は八九間もあろう。左右は双方共四間に過ぎん。今吾輩の云った垣巡りと云う運動はこの垣の上を落ちないように一周するのである。これはやり損(そこな)う事もままあるが、首尾よく行くとお慰(なぐさみ)になる。ことに所々に根を焼いた丸太が立っているから、ちょっと休息に便宜(べんぎ)がある。今日は出来がよかったので朝から昼までに三返(べん)やって見たが、やるたびにうまくなる。うまくなる度(たび)に面白くなる。とうとう四返繰り返したが、四返目に半分ほど巡(まわ)りかけたら、隣の屋根から烏が三羽飛んで来て、一間ばかり向うに列を正してとまった。これは推参な奴だ。人の運動の妨(さまたげ)をする、ことにどこの烏だか籍(せき)もない分在(ぶんざい)で、人の塀へとまるという法があるもんかと思ったから、通るんだおい除(の)きたまえと声をかけた。真先の烏はこっちを見てにやにや笑っている。次のは主人の庭を眺(なが)めている。三羽目は嘴(くちばし)を垣根の竹で拭(ふ)いている。何か食って来たに違ない。吾輩は返答を待つために、彼等に三分間の猶予(ゆうよ)を与えて、垣の上に立っていた。烏は通称を勘左衛門と云うそうだが、なるほど勘左衛門だ。吾輩がいくら待ってても挨拶もしなければ、飛びもしない。吾輩は仕方がないから、そろそろ歩き出した。すると真先の勘左衛門がちょいと羽を広げた。やっと吾輩の威光に恐れて逃げるなと思ったら、右向から左向に姿勢をかえただけである。この野郎!地面の上ならその分に捨ておくのではないが、いかんせん、たださえ骨の折れる道中に、勘左衛門などを相手にしている余裕がない。といってまた立留まって三羽が立ち退(の)くのを待つのもいやだ。第一そう待っていては足がつづかない。先方は羽根のある身分であるから、こんな所へはとまりつけている。従って気に入ればいつまでも逗留(とうりゅう)するだろう。こっちはこれで四返目だたださえ大分(だいぶ)労(つか)れている。いわんや綱渡りにも劣らざる芸当兼運動をやるのだ。何等の障害物がなくてさえ落ちんとは保証が出来んのに、こんな黒装束(くろしょうぞく)が、三個も前途を遮(さえぎ)っては容易ならざる不都合だ。いよいよとなれば自(みずか)ら運動を中止して垣根を下りるより仕方がない。面倒だから、いっそさよう仕ろうか、敵は大勢の事ではあるし、ことにはあまりこの辺には見馴れぬ人体(にんてい)である。口嘴(くちばし)が乙(おつ)に尖(とん)がって何だか天狗(てんぐ)の啓(もう)し子(ご)のようだ。どうせ質(たち)のいい奴でないには極(きま)っている。退却が安全だろう、あまり深入りをして万一落ちでもしたらなおさら恥辱だ。と思っていると左向(ひだりむけ)をした烏が阿呆(あほう)と云った。次のも真似をして阿呆と云った。最後の奴は御鄭寧(ごていねい)にも阿呆阿呆と二声叫んだ。いかに温厚なる吾輩でもこれは看過(かんか)出来ない。第一自己の邸内で烏輩(からすはい)に侮辱されたとあっては、吾輩の名前にかかわる。名前はまだないから係わりようがなかろうと云うなら体面に係わる。決して退却は出来ない。諺(ことわざ)にも烏合(うごう)の衆と云うから三羽だって存外弱いかも知れない。進めるだけ進めと度胸を据(す)えて、のそのそ歩き出す。烏は知らん顔をして何か御互に話をしている様子だ。いよいよ肝癪(かんしゃく)に障(さわ)る。垣根の幅がもう五六寸もあったらひどい目に合せてやるんだが、残念な事にはいくら怒(おこ)っても、のそのそとしかあるかれない。ようやくの事先鋒(せんぽう)を去る事約五六寸の距離まで来てもう一息だと思うと、勘左衛門は申し合せたように、いきなり羽搏(はばたき)をして一二尺飛び上がった。その風が突然余の顔を吹いた時、はっと思ったら、つい踏み外(は)ずして、すとんと落ちた。これはしくじったと垣根の下から見上げると、三羽共元の所にとまって上から嘴(くちばし)を揃(そろ)えて吾輩の顔を見下している。図太い奴だ。睨(にら)めつけてやったが一向(いっこう)利(き)かない。背を丸くして、少々唸(うな)ったが、ますます駄目だ。俗人に霊妙なる象徴詩がわからぬごとく、吾輩が彼等に向って示す怒りの記号も何等の反応を呈出しない。考えて見ると無理のないところだ。吾輩は今まで彼等を猫として取り扱っていた。それが悪るい。猫ならこのくらいやればたしかに応(こた)えるのだが生憎(あいにく)相手は烏だ。烏の勘公とあって見れば致し方がない。実業家が主人苦沙弥(くしゃみ)先生を圧倒しようとあせるごとく、西行(さいぎょう)に銀製の吾輩を進呈するがごとく、西郷隆盛君の銅像に勘公が糞(ふん)をひるようなものである。機を見るに敏なる吾輩はとうてい駄目と見て取ったから、奇麗さっぱりと椽側へ引き上げた。もう晩飯の時刻だ。運動もいいが度を過ごすと行(い)かぬ者で、からだ全体が何となく緊(しま)りがない、ぐたぐたの感がある。のみならずまだ秋の取り付きで運動中に照り付けられた毛ごろもは、西日を思う存分吸収したと見えて、ほてってたまらない。毛穴から染(し)み出す汗が、流れればと思うのに毛の根に膏(あぶら)のようにねばり付く。背中(せなか)がむずむずする。汗でむずむずするのと蚤(のみ)が這(は)ってむずむずするのは判然と区別が出来る。口の届く所なら噛(か)む事も出来る、足の達する領分は引き掻(か)く事も心得にあるが、脊髄(せきずい)の縦に通う真中と来たら自分の及ぶ限(かぎり)でない。こう云う時には人間を見懸けて矢鱈(やたら)にこすり付けるか、松の木の皮で充分摩擦術を行うか、二者その一を択(えら)ばんと不愉快で安眠も出来兼ねる。人間は愚(ぐ)なものであるから、猫なで声で――猫なで声は人間の吾輩に対して出す声だ。吾輩を目安(めやす)にして考えれば猫なで声ではない、なでられ声である――よろしい、とにかく人間は愚なものであるから撫(な)でられ声で膝の傍(そば)へ寄って行くと、大抵の場合において彼もしくは彼女を愛するものと誤解して、わが為(な)すままに任せるのみか折々は頭さえ撫(な)でてくれるものだ。しかるに近来吾輩の毛中(もうちゅう)にのみと号する一種の寄生虫が繁殖したので滅多(めった)に寄り添うと、必ず頸筋(くびすじ)を持って向うへ抛(ほう)り出される。わずかに眼に入(い)るか入(い)らぬか、取るにも足らぬ虫のために愛想(あいそ)をつかしたと見える。手を翻(ひるがえ)せば雨、手を覆(くつがえ)せば雲とはこの事だ。高がのみの千疋(びき)や二千疋でよくまあこんなに現金な真似が出来たものだ。人間世界を通じて行われる愛の法則の第一条にはこうあるそうだ。――自己の利益になる間は、すべからく人を愛すべし。――人間の取り扱が俄然豹変(がぜんひょうへん)したので、いくら痒(か)ゆくても人力を利用する事は出来ん。だから第二の方法によって松皮(しょうひ)摩擦法(まさつほう)をやるよりほかに分別はない。しからばちょっとこすって参ろうかとまた椽側(えんがわ)から降りかけたが、いやこれも利害相償わぬ愚策だと心付いた。と云うのはほかでもない。松には脂(やに)がある。この脂(やに)たるすこぶる執着心の強い者で、もし一たび、毛の先へくっ付けようものなら、雷が鳴ってもバルチック艦隊が全滅しても決して離れない。しかのみならず五本の毛へこびりつくが早いか、十本に蔓延(まんえん)する。十本やられたなと気が付くと、もう三十本引っ懸っている。吾輩は淡泊(たんぱく)を愛する茶人的猫(ちゃじんてきねこ)である。こんな、しつこい、毒悪な、ねちねちした、執念深(しゅうねんぶか)い奴は大嫌だ。たとい天下の美猫(びみょう)といえどもご免蒙る。いわんや松脂(まつやに)においてをやだ。車屋の黒の両眼から北風に乗じて流れる目糞と択(えら)ぶところなき身分をもって、この淡灰色(たんかいしょく)の毛衣(けごろも)を大(だい)なしにするとは怪(け)しからん。少しは考えて見るがいい。といったところできゃつなかなか考える気遣(きづかい)はない。あの皮のあたりへ行って背中をつけるが早いか必ずべたりとおいでになるに極(きま)っている。こんな無分別な頓痴奇(とんちき)を相手にしては吾輩の顔に係わるのみならず、引いて吾輩の毛並に関する訳だ。いくら、むずむずしたって我慢するよりほかに致し方はあるまい。しかしこの二方法共実行出来んとなるとはなはだ心細い。今において一工夫(ひとくふう)しておかんとしまいにはむずむず、ねちねちの結果病気に罹(かか)るかも知れない。何か分別はあるまいかなと、後(あ)と足(あし)を折って思案したが、ふと思い出した事がある。うちの主人は時々手拭と石鹸(シャボン)をもって飄然(ひょうぜん)といずれへか出て行く事がある、三四十分して帰ったところを見ると彼の朦朧(もうろう)たる顔色(がんしょく)が少しは活気を帯びて、晴れやかに見える。主人のような汚苦(むさくる)しい男にこのくらいな影響を与えるなら吾輩にはもう少し利目(ききめ)があるに相違ない。吾輩はただでさえこのくらいな器量だから、これより色男になる必要はないようなものの、万一病気に罹(かか)って一歳何(なん)が月(げつ)で夭折(ようせつ)するような事があっては天下の蒼生(そうせい)に対して申し訳がない。聞いて見るとこれも人間のひま潰(つぶ)しに案出した洗湯(せんとう)なるものだそうだ。どうせ人間の作ったものだから碌(ろく)なものでないには極(きま)っているがこの際の事だから試しに這入(はい)って見るのもよかろう。やって見て功験がなければよすまでの事だ。しかし人間が自己のために設備した浴場へ異類の猫を入れるだけの洪量(こうりょう)があるだろうか。これが疑問である。主人がすまして這入(はい)るくらいのところだから、よもや吾輩を断わる事もなかろうけれども万一お気の毒様を食うような事があっては外聞がわるい。これは一先(ひとま)ず容子(ようす)を見に行くに越した事はない。見た上でこれならよいと当りが付いたら、手拭を啣(くわ)えて飛び込んで見よう。とここまで思案を定めた上でのそのそと洗湯へ出掛けた。

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