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《吾輩は猫である》 作者:夏目漱石

七 - 4

衣服はかくのごとく人間にも大事なものである。人間が衣服か、衣服が人間かと云うくらい重要な条件である。人間の歴史は肉の歴史にあらず、骨の歴史にあらず、血の歴史にあらず、単に衣服の歴史であると申したいくらいだ。だから衣服を着けない人間を見ると人間らしい感じがしない。まるで化物(ばけもの)に邂逅(かいこう)したようだ。化物でも全体が申し合せて化物になれば、いわゆる化物は消えてなくなる訳だから構わんが、それでは人間自身が大(おおい)に困却する事になるばかりだ。その昔(むか)し自然は人間を平等なるものに製造して世の中に抛(ほう)り出した。だからどんな人間でも生れるときは必ず赤裸(あかはだか)である。もし人間の本性(ほんせい)が平等に安んずるものならば、よろしくこの赤裸のままで生長してしかるべきだろう。しかるに赤裸の一人が云うにはこう誰も彼も同じでは勉強する甲斐(かい)がない。骨を折った結果が見えぬ。どうかして、おれはおれだ誰が見てもおれだと云うところが目につくようにしたい。それについては何か人が見てあっと魂消(たまげ)る物をからだにつけて見たい。何か工夫はあるまいかと十年間考えてようやく猿股(さるまた)を発明してすぐさまこれを穿(は)いて、どうだ恐れ入ったろうと威張ってそこいらを歩いた。これが今日(こんにち)の車夫の先祖である。単簡(たんかん)なる猿股を発明するのに十年の長日月を費(つい)やしたのはいささか異(い)な感もあるが、それは今日から古代に溯(さかのぼ)って身を蒙昧(もうまい)の世界に置いて断定した結論と云うもので、その当時にこれくらいな大発明はなかったのである。デカルトは「余は思考す、故に余は存在す」という三(み)つ子(ご)にでも分るような真理を考え出すのに十何年か懸ったそうだ。すべて考え出す時には骨の折れるものであるから猿股の発明に十年を費やしたって車夫の智慧(ちえ)には出来過ぎると云わねばなるまい。さあ猿股が出来ると世の中で幅のきくのは車夫ばかりである。あまり車夫が猿股をつけて天下の大道を我物顔に横行濶歩(かっぽ)するのを憎らしいと思って負けん気の化物が六年間工夫して羽織と云う無用の長物を発明した。すると猿股の勢力は頓(とみ)に衰えて、羽織全盛の時代となった。八百屋、生薬屋(きぐすりや)、呉服屋は皆この大発明家の末流(ばつりゅう)である。猿股期、羽織期の後(あと)に来るのが袴期(はかまき)である。これは、何だ羽織の癖にと癇癪(かんしゃく)を起した化物の考案になったもので、昔の武士今の官員などは皆この種属である。かように化物共がわれもわれもと異(い)を衒(てら)い新(しん)を競(きそ)って、ついには燕(つばめ)の尾にかたどった畸形(きけい)まで出現したが、退いてその由来を案ずると、何も無理矢理に、出鱈目(でたらめ)に、偶然に、漫然に持ち上がった事実では決してない。皆勝ちたい勝ちたいの勇猛心の凝(こ)ってさまざまの新形(しんがた)となったもので、おれは手前じゃないぞと振れてあるく代りに被(かぶ)っているのである。して見るとこの心理からして一大発見が出来る。それはほかでもない。自然は真空を忌(い)むごとく、人間は平等を嫌うと云う事だ。すでに平等を嫌ってやむを得ず衣服を骨肉のごとくかようにつけ纏(まと)う今日において、この本質の一部分たる、これ等を打ちやって、元の杢阿弥(もくあみ)の公平時代に帰るのは狂人の沙汰である。よし狂人の名称を甘んじても帰る事は到底出来ない。帰った連中を開明人(かいめいじん)の目から見れば化物である。仮令(たとい)世界何億万の人口を挙(あ)げて化物の域に引ずりおろしてこれなら平等だろう、みんなが化物だから恥ずかしい事はないと安心してもやっぱり駄目である。世界が化物になった翌日からまた化物の競争が始まる。着物をつけて競争が出来なければ化物なりで競争をやる。赤裸(あかはだか)は赤裸でどこまでも差別を立ててくる。この点から見ても衣服はとうてい脱ぐ事は出来ないものになっている。

しかるに今吾輩が眼下(がんか)に見下(みおろ)した人間の一団体は、この脱ぐべからざる猿股も羽織も乃至(ないし)袴(はかま)もことごとく棚の上に上げて、無遠慮にも本来の狂態を衆目環視(しゅうもくかんし)の裡(うち)に露出して平々然(へいへいぜん)と談笑を縦(ほしいま)まにしている。吾輩が先刻(さっき)一大奇観と云ったのはこの事である。吾輩は文明の諸君子のためにここに謹(つつし)んでその一般を紹介するの栄を有する。

何だかごちゃごちゃしていて何(な)にから記述していいか分らない。化物のやる事には規律がないから秩序立った証明をするのに骨が折れる。まず湯槽(ゆぶね)から述べよう。湯槽だか何だか分らないが、大方(おおかた)湯槽というものだろうと思うばかりである。幅が三尺くらい、長(ながさ)は一間半もあるか、それを二つに仕切って一つには白い湯が這入(はい)っている。何でも薬湯(くすりゆ)とか号するのだそうで、石灰(いしばい)を溶かし込んだような色に濁っている。もっともただ濁っているのではない。膏(あぶら)ぎって、重た気(げ)に濁っている。よく聞くと腐って見えるのも不思議はない、一週間に一度しか水を易(か)えないのだそうだ。その隣りは普通一般の湯の由(よし)だがこれまたもって透明、瑩徹(えいてつ)などとは誓って申されない。天水桶(てんすいおけ)を攪(か)き混(ま)ぜたくらいの価値はその色の上において充分あらわれている。これからが化物の記述だ。大分(だいぶ)骨が折れる。天水桶の方に、突っ立っている若造(わかぞう)が二人いる。立ったまま、向い合って湯をざぶざぶ腹の上へかけている。いい慰(なぐさ)みだ。双方共色の黒い点において間然(かんぜん)するところなきまでに発達している。この化物は大分(だいぶ)逞ましいなと見ていると、やがて一人が手拭で胸のあたりを撫(な)で廻しながら「金さん、どうも、ここが痛んでいけねえが何だろう」と聞くと金さんは「そりゃ胃さ、胃て云う奴は命をとるからね。用心しねえとあぶないよ」と熱心に忠告を加える。「だってこの左の方だぜ」た左肺(さはい)の方を指す。「そこが胃だあな。左が胃で、右が肺だよ」「そうかな、おらあまた胃はここいらかと思った」と今度は腰の辺を叩(たた)いて見せると、金さんは「そりゃ疝気(せんき)だあね」と云った。ところへ二十五六の薄い髯(ひげ)を生(は)やした男がどぶんと飛び込んだ。すると、からだに付いていた石鹸(シャボン)が垢(あか)と共に浮きあがる。鉄気(かなけ)のある水を透(す)かして見た時のようにきらきらと光る。その隣りに頭の禿(は)げた爺さんが五分刈を捕(とら)えて何か弁じている。双方共頭だけ浮かしているのみだ。「いやこう年をとっては駄目さね。人間もやきが廻っちゃ若い者には叶(かな)わないよ。しかし湯だけは今でも熱いのでないと心持が悪くてね」「旦那なんか丈夫なものですぜ。そのくらい元気がありゃ結構だ」「元気もないのさ。ただ病気をしないだけさ。人間は悪い事さえしなけりゃあ百二十までは生きるもんだからね」「へえ、そんなに生きるもんですか」「生きるとも百二十までは受け合う。御維新前(ごいっしんまえ)牛込に曲淵(まがりぶち)と云う旗本(はたもと)があって、そこにいた下男は百三十だったよ」「そいつは、よく生きたもんですね」「ああ、あんまり生き過ぎてつい自分の年を忘れてね。百までは覚えていましたがそれから忘れてしまいましたと云ってたよ。それでわしの知っていたのが百三十の時だったが、それで死んだんじゃない。それからどうなったか分らない。事によるとまだ生きてるかも知れない」と云いながら槽(ふね)から上(あが)る。髯(ひげ)を生(は)やしている男は雲母(きらら)のようなものを自分の廻りに蒔(ま)き散らしながら独(ひと)りでにやにや笑っていた。入れ代って飛び込んで来たのは普通一般の化物とは違って背中(せなか)に模様画をほり付けている。岩見重太郎(いわみじゅうたろう)が大刀(だいとう)を振り翳(かざ)して蟒(うわばみ)を退治(たいじ)るところのようだが、惜しい事に未(ま)だ竣功(しゅんこう)の期に達せんので、蟒はどこにも見えない。従って重太郎先生いささか拍子抜けの気味に見える。飛び込みながら「箆棒(べらぼう)に温(ぬ)るいや」と云った。するとまた一人続いて乗り込んだのが「こりゃどうも……もう少し熱くなくっちゃあ」と顔をしかめながら熱いのを我慢する気色(けしき)とも見えたが、重太郎先生と顔を見合せて「やあ親方」と挨拶(あいさつ)をする。重太郎は「やあ」と云ったが、やがて「民さんはどうしたね」と聞く。「どうしたか、じゃんじゃんが好きだからね」「じゃんじゃんばかりじゃねえ……」「そうかい、あの男も腹のよくねえ男だからね。――どう云うもんか人に好かれねえ、――どう云うものだか、――どうも人が信用しねえ。職人てえものは、あんなもんじゃねえが」「そうよ。民さんなんざあ腰が低いんじゃねえ、頭(ず)が高(た)けえんだ。それだからどうも信用されねえんだね」「本当によ。あれで一(い)っぱし腕があるつもりだから、――つまり自分の損だあな」「白銀町(しろかねちょう)にも古い人が亡(な)くなってね、今じゃ桶屋(おけや)の元さんと煉瓦屋(れんがや)の大将と親方ぐれえな者だあな。こちとらあこうしてここで生れたもんだが、民さんなんざあ、どこから来たんだか分りゃしねえ」「そうよ。しかしよくあれだけになったよ」「うん。どう云うもんか人に好かれねえ。人が交際(つきあ)わねえからね」と徹頭徹尾民さんを攻撃する。

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