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《吾輩は猫である》 作者:夏目漱石

九 - 14

「こう自分と気狂(きちがい)ばかりを比較して類似の点ばかり勘定していては、どうしても気狂の領分を脱する事は出来そうにもない。これは方法がわるかった。気狂を標準にして自分をそっちへ引きつけて解釈するからこんな結論が出るのである。もし健康な人を本位にしてその傍(そば)へ自分を置いて考えて見たらあるいは反対の結果が出るかも知れない。それにはまず手近から始めなくてはいかん。第一に今日来たフロックコートの伯父さんはどうだ。心をどこに置こうぞ……あれも少々怪しいようだ。第二に寒月はどうだ。朝から晩まで弁当持参で球(たま)ばかり磨いている。これも棒組(ぼうぐみ)だ。第三にと……迷亭?あれはふざけ廻るのを天職のように心得ている。全く陽性の気狂に相違ない。第四はと……金田の妻君。あの毒悪な根性(こんじょう)は全く常識をはずれている。純然たる気じるしに極(きま)ってる。第五は金田君の番だ。金田君には御目に懸った事はないが、まずあの細君を恭(うやうや)しくおっ立てて、琴瑟(きんしつ)調和しているところを見ると非凡の人間と見立てて差支(さしつか)えあるまい。非凡は気狂の異名(いみょう)であるから、まずこれも同類にしておいて構わない。それからと、――まだあるある。落雲館の諸君子だ、年齢から云うとまだ芽生えだが、躁狂(そうきょう)の点においては一世を空(むな)しゅうするに足る天晴(あっぱれ)な豪(ごう)のものである。こう数え立てて見ると大抵のものは同類のようである。案外心丈夫になって来た。ことによると社会はみんな気狂の寄り合かも知れない。気狂が集合して鎬(しのぎ)を削(けず)ってつかみ合い、いがみ合い、罵(ののし)り合い、奪い合って、その全体が団体として細胞のように崩(くず)れたり、持ち上ったり、持ち上ったり、崩れたりして暮して行くのを社会と云うのではないか知らん。その中で多少理窟(りくつ)がわかって、分別のある奴はかえって邪魔になるから、瘋癲院(ふうてんいん)というものを作って、ここへ押し込めて出られないようにするのではないかしらん。すると瘋癲院に幽閉されているものは普通の人で、院外にあばれているものはかえって気狂である。気狂も孤立している間はどこまでも気狂にされてしまうが、団体となって勢力が出ると、健全の人間になってしまうのかも知れない。大きな気狂が金力や威力を濫用(らんよう)して多くの小気狂(しょうきちがい)を使役(しえき)して乱暴を働いて、人から立派な男だと云われている例は少なくない。何が何だか分らなくなった」

以上は主人が当夜煢々(けいけい)たる孤灯の下(もと)で沈思熟慮した時の心的作用をありのままに描(えが)き出したものである。彼の頭脳の不透明なる事はここにも著るしくあらわれている。彼はカイゼルに似た八字髯(はちじひげ)を蓄(たくわ)うるにもかかわらず狂人と常人の差別さえなし得ぬくらいの凡倉(ぼんくら)である。のみならず彼はせっかくこの問題を提供して自己の思索力に訴えながら、ついに何等の結論に達せずしてやめてしまった。何事によらず彼は徹底的に考える脳力のない男である。彼の結論の茫漠(ぼうばく)として、彼の鼻孔から迸出(ほうしゅつ)する朝日の煙のごとく、捕捉(ほそく)しがたきは、彼の議論における唯一の特色として記憶すべき事実である。

吾輩は猫である。猫の癖にどうして主人の心中をかく精密に記述し得るかと疑うものがあるかも知れんが、このくらいな事は猫にとって何でもない。吾輩はこれで読心術を心得ている。いつ心得たなんて、そんな余計な事は聞かんでもいい。ともかくも心得ている。人間の膝(ひざ)の上へ乗って眠っているうちに、吾輩は吾輩の柔かな毛衣(けごろも)をそっと人間の腹にこすり付ける。すると一道の電気が起って彼の腹の中のいきさつが手にとるように吾輩の心眼に映ずる。せんだってなどは主人がやさしく吾輩の頭を撫(な)で廻しながら、突然この猫の皮を剥(は)いでちゃんちゃんにしたらさぞあたたかでよかろうと飛んでもない了見(りょうけん)をむらむらと起したのを即座に気取(けど)って覚えずひやっとした事さえある。怖(こわ)い事だ。当夜主人の頭のなかに起った以上の思想もそんな訳合(わけあい)で幸(さいわい)にも諸君にご報道する事が出来るように相成ったのは吾輩の大(おおい)に栄誉とするところである。但(ただ)し主人は「何が何だか分らなくなった」まで考えてそのあとはぐうぐう寝てしまったのである、あすになれば何をどこまで考えたかまるで忘れてしまうに違ない。向後(こうご)もし主人が気狂(きちがい)について考える事があるとすれば、もう一返(ぺん)出直して頭から考え始めなければならぬ。そうすると果してこんな径路(けいろ)を取って、こんな風に「何が何だか分らなくなる」かどうだか保証出来ない。しかし何返考え直しても、何条(なんじょう)の径路をとって進もうとも、ついに「何が何だか分らなくなる」だけはたしかである。

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