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《吾輩は猫である》 作者:夏目漱石

十 - 8

「ホホホホ旨(うま)いのね。わたしもこれからそうしよう」

「そうなさいよ。それでなくっちゃ損だわ」

「こないだ保険会社の人が来て、是非御這入(おはい)んなさいって、勧めているんでしょう、――いろいろ訳(わけ)を言って、こう云う利益があるの、ああ云う利益があるのって、何でも一時間も話をしたんですが、どうしても這入らないの。うちだって貯蓄はなし、こうして小供は三人もあるし、せめて保険へでも這入ってくれるとよっぽど心丈夫なんですけれども、そんな事は少しも構わないんですもの」

「そうね、もしもの事があると不安心だわね」と十七八の娘に似合しからん世帯染(しょたいじ)みたことを云う。

「その談判を蔭で聞いていると、本当に面白いのよ。なるほど保険の必要も認めないではない。必要なものだから会社も存在しているのだろう。しかし死なない以上は保険に這入(はい)る必要はないじゃないかって強情を張っているんです」

「叔父さんが?」

「ええ、すると会社の男が、それは死ななければ無論保険会社はいりません。しかし人間の命と云うものは丈夫なようで脆(もろ)いもので、知らないうちに、いつ危険が逼(せま)っているか分りませんと云うとね、叔父さんは、大丈夫僕は死なない事に決心をしているって、まあ無法な事を云うんですよ」

「決心したって、死ぬわねえ。わたしなんか是非及第(きゅうだい)するつもりだったけれども、とうとう落第してしまったわ」

「保険社員もそう云うのよ。寿命は自分の自由にはなりません。決心で長(な)が生(い)きが出来るものなら、誰も死ぬものはございませんって」

「保険会社の方が至当(しとう)ですわ」

「至当でしょう。それがわからないの。いえ決して死なない。誓って死なないって威張るの」

「妙ね」

「妙ですとも、大妙(おおみょう)ですわ。保険の掛金を出すくらいなら銀行へ貯金する方が遥(はる)かにましだってすまし切っているんですよ」

「貯金があるの?」

「あるもんですか。自分が死んだあとなんか、ちっとも構う考なんかないんですよ」

「本当に心配ね。なぜ、あんななんでしょう、ここへいらっしゃる方(かた)だって、叔父さんのようなのは一人もいないわね」

「いるものですか。無類ですよ」

「ちっと鈴木さんにでも頼んで意見でもして貰うといいんですよ。ああ云う穏(おだ)やかな人だとよっぽど楽(らく)ですがねえ」

「ところが鈴木さんは、うちじゃ評判がわるいのよ」

「みんな逆(さか)なのね。それじゃ、あの方(かた)がいいでしょう――ほらあの落ちついてる――」

「八木さん?」

「ええ」

「八木さんには大分(だいぶ)閉口しているんですがね。昨日(きのう)迷亭さんが来て悪口をいったものだから、思ったほど利(き)かないかも知れない」

「だっていいじゃありませんか。あんな風に鷹揚(おうよう)に落ちついていれば、――こないだ学校で演説をなすったわ」

「八木さんが?」

「ええ」

「八木さんは雪江さんの学校の先生なの」

「いいえ、先生じゃないけども、淑徳(しゅくとく)婦人会(ふじんかい)のときに招待して、演説をして頂いたの」

「面白かって?」

「そうね、そんなに面白くもなかったわ。だけども、あの先生が、あんな長い顔なんでしょう。そうして天神様のような髯(ひげ)を生やしているもんだから、みんな感心して聞いていてよ」

「御話しって、どんな御話なの?」と妻君が聞きかけていると椽側(えんがわ)の方から、雪江さんの話し声をききつけて、三人の子供がどたばた茶の間へ乱入して来た。今までは竹垣の外の空地(あきち)へ出て遊んでいたものであろう。

「あら雪江さんが来た」と二人の姉さんは嬉しそうに大きな声を出す。妻君は「そんなに騒がないで、みんな静かにして御坐わりなさい。雪江さんが今面白い話をなさるところだから」と仕事を隅へ片付ける。

「雪江さん何の御話し、わたし御話しが大好き」と云ったのはとん子で「やっぱりかちかち山の御話し?」と聞いたのはすん子である。「坊ばも御はなち」と云い出した三女は姉と姉の間から膝を前の方に出す。ただしこれは御話を承(うけたま)わると云うのではない、坊ばもまた御話を仕(つかまつ)ると云う意味である。「あら、また坊ばちゃんの話だ」と姉さんが笑うと、妻君は「坊ばはあとでなさい。雪江さんの御話がすんでから」と賺(す)かして見る。坊ばはなかなか聞きそうにない。「いやーよ、ばぶ」と大きな声を出す。「おお、よしよし坊ばちゃんからなさい。何と云うの?」と雪江さんは謙遜(けんそん)した。

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