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《吾輩は猫である》 作者:夏目漱石

十一 - 5

「うむ、そりゃそれでいいが、ここへ駄目を一つ入れなくちゃいけない」

「よろしい。駄目、駄目、駄目と。それで片づいた。――僕はその話を聞いて、実に驚いたね。そんなところで君がヴァイオリンを独習したのは見上げたものだ。独(けいどく)にして不羣(ふぐん)なりと楚辞(そじ)にあるが寒月君は全く明治の屈原(くつげん)だよ」

「屈原はいやですよ」

「それじゃ今世紀のウェルテルさ。――なに石を上げて勘定をしろ?やに物堅(ものがた)い性質(たち)だね。勘定しなくっても僕は負けてるからたしかだ」

「しかし極(きま)りがつかないから……」

「それじゃ君やってくれたまえ。僕は勘定所じゃない。一代の才人ウェルテル君がヴァイオリンを習い出した逸話を聞かなくっちゃ、先祖へ済まないから失敬する」と席をはずして、寒月君の方へすり出して来た。独仙君は丹念に白石を取っては白の穴を埋(う)め、黒石を取っては黒の穴を埋めて、しきりに口の内で計算をしている。寒月君は話をつづける。

「土地柄がすでに土地柄だのに、私の国のものがまた非常に頑固(がんこ)なので、少しでも柔弱なものがおっては、他県の生徒に外聞がわるいと云って、むやみに制裁を厳重にしましたから、ずいぶん厄介でした」

「君の国の書生と来たら、本当に話せないね。元来何だって、紺(こん)の無地の袴(はかま)なんぞ穿(は)くんだい。第一(だいち)あれからして乙(おつ)だね。そうして塩風に吹かれつけているせいか、どうも、色が黒いね。男だからあれで済むが女があれじゃさぞかし困るだろう」と迷亭君が一人這入(はい)ると肝心(かんじん)の話はどっかへ飛んで行ってしまう。

「女もあの通り黒いのです」

「それでよく貰い手があるね」

「だって一国中(いっこくじゅう)ことごとく黒いのだから仕方がありません」

「因果(いんが)だね。ねえ苦沙弥君」

「黒い方がいいだろう。生(なま)じ白いと鏡を見るたんびに己惚(おのぼれ)が出ていけない。女と云うものは始末におえない物件だからなあ」と主人は喟然(きぜん)として大息(たいそく)を洩(も)らした。

「だって一国中ことごとく黒ければ、黒い方で己惚(うぬぼ)れはしませんか」と東風君がもっともな質問をかけた。

「ともかくも女は全然不必要な者だ」と主人が云うと、

「そんな事を云うと妻君が後でご機嫌がわるいぜ」と笑いながら迷亭先生が注意する。

「なに大丈夫だ」

「いないのかい」

「小供を連れて、さっき出掛けた」

「どうれで静かだと思った。どこへ行ったのだい」

「どこだか分らない。勝手に出てあるくのだ」

「そうして勝手に帰ってくるのかい」

「まあそうだ。君は独身でいいなあ」と云うと東風君は少々不平な顔をする。寒月君はにやにやと笑う。迷亭君は

「妻(さい)を持つとみんなそう云う気になるのさ。ねえ独仙君、君なども妻君難の方だろう」

「ええ?ちょっと待った。四六二十四、二十五、二十六、二十七と。狭いと思ったら、四十六目(もく)あるか。もう少し勝ったつもりだったが、こしらえて見ると、たった十八目の差か。――何だって?」

「君も妻君難だろうと云うのさ」

「アハハハハ別段難でもないさ。僕の妻(さい)は元来僕を愛しているのだから」

「そいつは少々失敬した。それでこそ独仙君だ」

「独仙君ばかりじゃありません。そんな例はいくらでもありますよ」と寒月君が天下の妻君に代ってちょっと弁護の労を取った。

「僕も寒月君に賛成する。僕の考では人間が絶対の域(いき)に入(い)るには、ただ二つの道があるばかりで、その二つの道とは芸術と恋だ。夫婦の愛はその一つを代表するものだから、人間は是非結婚をして、この幸福を完(まっと)うしなければ天意に背(そむ)く訳だと思うんだ。――がどうでしょう先生」と東風君は相変らず真面目で迷亭君の方へ向き直った。

「御名論だ。僕などはとうてい絶対の境(きょう)に這入(はい)れそうもない」

「妻(さい)を貰えばなお這入れやしない」と主人はむずかしい顔をして云った。

「ともかくも我々未婚の青年は芸術の霊気にふれて向上の一路を開拓しなければ人生の意義が分からないですから、まず手始めにヴァイオリンでも習おうと思って寒月君にさっきから経験譚(けいけんだん)をきいているのです」

「そうそう、ウェルテル君のヴァイオリン物語を拝聴するはずだったね。さあ話し給え。もう邪魔はしないから」と迷亭君がようやく鋒鋩(ほうぼう)を収めると、

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