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《吾輩は猫である》 作者:夏目漱石

十一 - 17

「こんな噺(はなし)もあるよ」とだまってる事の嫌(きらい)な迷亭君が云った。「カーライルが始めて女皇(じょこう)に謁した時、宮廷の礼に嫻(なら)わぬ変物(へんぶつ)の事だから、先生突然どうですと云いながら、どさりと椅子へ腰をおろした。ところが女皇の後(うし)ろに立っていた大勢の侍従や官女がみんなくすくす笑い出した――出したのではない、出そうとしたのさ、すると女皇が後ろを向いて、ちょっと何か相図をしたら、多勢(おおぜい)の侍従官女がいつの間(ま)にかみんな椅子へ腰をかけて、カーライルは面目を失わなかったと云うんだが随分御念の入った親切もあったもんだ」

「カーライルの事なら、みんなが立ってても平気だったかも知れませんよ」と寒月君が短評を試みた。

「親切の方の自覚心はまあいいがね」と独仙君は進行する。「自覚心があるだけ親切をするにも骨が折れる訳になる。気の毒な事さ。文明が進むに従って殺伐の気がなくなる、個人と個人の交際がおだやかになるなどと普通云うが大間違いさ。こんなに自覚心が強くって、どうしておだやかになれるものか。なるほどちょっと見るとごくしずかで無事なようだが、御互の間は非常に苦しいのさ。ちょうど相撲が土俵の真中で四(よ)つに組んで動かないようなものだろう。はたから見ると平穏至極だが当人の腹は波を打っているじゃないか」

「喧嘩(けんか)も昔(むか)しの喧嘩は暴力で圧迫するのだからかえって罪はなかったが、近頃じゃなかなか巧妙になってるからなおなお自覚心が増してくるんだね」と番が迷亭先生の頭の上に廻って来る。「ベーコンの言葉に自然の力に従って始めて自然に勝つとあるが、今の喧嘩は正にベーコンの格言通りに出来上ってるから不思議だ。ちょうど柔術のようなものさ。敵の力を利用して敵を斃(たお)す事を考える……」

「または水力電気のようなものですね。水の力に逆らわないでかえってこれを電力に変化して立派に役に立たせる……」と寒月君が言いかけると、独仙君がすぐそのあとを引き取った。「だから貧時(ひんじ)には貧(ひん)に縛(ばく)せられ、富時(ふじ)には富(ふ)に縛せられ、憂時(ゆうじ)には憂(ゆう)に縛せられ、喜時(きじ)には喜(き)に縛せられるのさ。才人は才に斃(たお)れ、智者は智に敗れ、苦沙弥君のような癇癪持(かんしゃくも)ちは癇癪を利用さえすればすぐに飛び出して敵のぺてんに罹(かか)る……」

「ひやひや」と迷亭君が手をたたくと、苦沙弥君はにやにや笑いながら「これでなかなかそう甘(うま)くは行かないのだよ」と答えたら、みんな一度に笑い出した。

「時に金田のようなのは何で斃れるだろう」

「女房は鼻で斃れ、主人は因業(いんごう)で斃れ、子分は探偵で斃れか」

「娘は?」

「娘は――娘は見た事がないから何とも云えないが――まず着倒れか、食い倒れ、もしくは呑んだくれの類(たぐい)だろう。よもや恋い倒れにはなるまい。ことによると卒塔婆小町(そとばこまち)のように行き倒れになるかも知れない」

「それは少しひどい」と新体詩を捧げただけに東風君が異議を申し立てた。

「だから応無所住(おうむしょじゅう)而(に)生其心(しょうごしん)と云うのは大事な言葉だ、そう云う境界(きょうがい)に至らんと人間は苦しくてならん」と独仙君しきりに独(ひと)り悟ったような事を云う。

「そう威張るもんじゃないよ。君などはことによると電光影裏(でんこうえいり)にさか倒れをやるかも知れないぜ」

「とにかくこの勢で文明が進んで行った日にや僕は生きてるのはいやだ」と主人がいい出した。

「遠慮はいらないから死ぬさ」と迷亭が言下(ごんか)に道破(どうは)する。

「死ぬのはなおいやだ」と主人がわからん強情を張る。

「生れる時には誰も熟考して生れるものは有りませんが、死ぬ時には誰も苦にすると見えますね」と寒月君がよそよそしい格言をのべる。

「金を借りるときには何の気なしに借りるが、返す時にはみんな心配するのと同じ事さ」とこんな時にすぐ返事の出来るのは迷亭君である。

「借りた金を返す事を考えないものは幸福であるごとく、死ぬ事を苦にせんものは幸福さ」と独仙君は超然として出世間的(しゅっせけんてき)である。

「君のように云うとつまり図太(ずぶと)いのが悟ったのだね」

「そうさ、禅語に鉄牛面(てつぎゅうめん)の鉄牛心(てつぎゅうしん)、牛鉄面の牛鉄心と云うのがある」

「そうして君はその標本と云う訳かね」

「そうでもない。しかし死ぬのを苦にするようになったのは神経衰弱と云う病気が発明されてから以後の事だよ」

「なるほど君などはどこから見ても神経衰弱以前の民だよ」

迷亭と独仙が妙な掛合(かけあい)をのべつにやっていると、主人は寒月東風二君を相手にしてしきりに文明の不平を述べている。

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