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《吾輩は猫である》 作者:夏目漱石

十一 - 26

陶然とはこんな事を云うのだろうと思いながら、あてもなく、そこかしこと散歩するような、しないような心持でしまりのない足をいい加減に運ばせてゆくと、何だかしきりに眠い。寝ているのだか、あるいてるのだか判然しない。眼はあけるつもりだが重い事夥(おびただ)しい。こうなればそれまでだ。海だろうが、山だろうが驚ろかないんだと、前足をぐにゃりと前へ出したと思う途端ぼちゃんと音がして、はっと云ううち、――やられた。どうやられたのか考える間(ま)がない。ただやられたなと気がつくか、つかないのにあとは滅茶苦茶になってしまった。

我に帰ったときは水の上に浮いている。苦しいから爪でもって矢鱈(やたら)に掻(か)いたが、掻けるものは水ばかりで、掻くとすぐもぐってしまう。仕方がないから後足(あとあし)で飛び上っておいて、前足で掻いたら、がりりと音がしてわずかに手応(てごたえ)があった。ようやく頭だけ浮くからどこだろうと見廻わすと、吾輩は大きな甕(かめ)の中に落ちている。この甕(かめ)は夏まで水葵(みずあおい)と称する水草(みずくさ)が茂っていたがその後烏の勘公が来て葵を食い尽した上に行水(ぎょうずい)を使う。行水を使えば水が減る。減れば来なくなる。近来は大分(だいぶ)減って烏が見えないなと先刻(さっき)思ったが、吾輩自身が烏の代りにこんな所で行水を使おうなどとは思いも寄らなかった。

水から縁(ふち)までは四寸余(よ)もある。足をのばしても届かない。飛び上っても出られない。呑気(のんき)にしていれば沈むばかりだ。もがけばがりがりと甕に爪があたるのみで、あたった時は、少し浮く気味だが、すべればたちまちぐっともぐる。もぐれば苦しいから、すぐがりがりをやる。そのうちからだが疲れてくる。気は焦(あせ)るが、足はさほど利(き)かなくなる。ついにはもぐるために甕を掻くのか、掻くためにもぐるのか、自分でも分りにくくなった。

その時苦しいながら、こう考えた。こんな呵責(かしゃく)に逢うのはつまり甕から上へあがりたいばかりの願である。あがりたいのは山々であるが上がれないのは知れ切っている。吾輩の足は三寸に足らぬ。よし水の面(おもて)にからだが浮いて、浮いた所から思う存分前足をのばしたって五寸にあまる甕の縁に爪のかかりようがない。甕のふちに爪のかかりようがなければいくらも掻(が)いても、あせっても、百年の間身を粉(こ)にしても出られっこない。出られないと分り切っているものを出ようとするのは無理だ。無理を通そうとするから苦しいのだ。つまらない。自(みずか)ら求めて苦しんで、自ら好んで拷問(ごうもん)に罹(かか)っているのは馬鹿気ている。

「もうよそう。勝手にするがいい。がりがりはこれぎりご免蒙(めんこうむ)るよ」と、前足も、後足も、頭も尾も自然の力に任せて抵抗しない事にした。

次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていても差支(さしつか)えはない。ただ楽である。否(いな)楽そのものすらも感じ得ない。日月(じつげつ)を切り落し、天地を粉韲(ふんせい)して不可思議の太平に入る。吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏。ありがたいありがたい。

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